大分県剣道部員死亡事件 <2> 裁判に至った経緯

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8月22日のその日、剣太は剣道部の練習中に熱中症を発症し、ふらつき、荒い呼吸、さらには意識障害などが見られ始めていたのです。

(署名活動をする剣太君のお父様 英士さん)

 

ところが、剣太がふらつき始めてから「演技をするな!そげん演技はせんでいいぞ。」と顧問は言いました。

 

そして剣太一人に厳しい練習を課した時も、腰が「く」の字に曲がるほど蹴ったり、壁に何度もぶち当って意識を失い、倒れて動かなくなっている剣太を何度も殴り続けたりしたこと――。顧問の声だけに反応し最後の力を振り絞り何度か目だけをうっすらと開けたこと――。

 

風音は声を荒げ涙を流しながら、自分が見たことを私たちに話しました。

通夜の席で、顧問が私達の前に座りました。
 

風音は拳を振り上げ、泣きながら顧問に叫び続けました。今にも殴りかかろうとする風音を、私たちの親戚の男性2人が抑えました。

妻が顧問に問い詰めました。
「ふらつく剣太を蹴ったり殴ったりしたんでしょ! なぜ!」
すると顧問は「気付けの為にやりました」と、その言葉だけを繰り返すだけでした。
親戚の者が副顧問に「なぜ止めなかった!」と怒鳴ると、「止めきりませんでした!」と数回大きな声で答えました。明らかに、おかしい答えです。

 

翌、告別式の日、私達はただ、剣太の最期をきちんと見送り、立派に旅立たせることだけ考えていました。式が終わり、火葬場へ到着すると剣太の顔は緑色に変わり、腐敗が激しくなっていました。

 

 ――どうしてこの子はこんな最期を遂げなければならなかったのか…。あんなに頑張って、とても優しいこの子が一体何をしたというのだろうか! いや、剣太は何も悪いことはしていない! どうして剣太がどのようにして命を失うことになったのか、真実を明らかにしなければいけない――いろいろな思いがこみ上げてきました。

 

その夜、親戚の者から「悔いが残るんやったら弁護士に相談してみたらどうな?」と言われました。その時、初めて「裁判」という言葉が頭をよぎりましたが、まだ本当に裁判を起こそうという気持ちにまではなっていませんでした。

 

剣太が亡くなって4日後、私たちは学校からではなく、別の学校関係者から「保護者会があるらしい…」と聞きました。剣太の通っていた竹田高校に問い合わせると、確かに8月26日に保護者を集めての保護者会があるとのことでした。
私は「何でうちに何の連絡もないんだ!」と校長に尋ねました。

私たち自身にも学校からは剣太の死亡についてきちんとした報告が無いままでしたし、剣道部での死亡事故について被害者である私たち抜きに学校が説明会を行う事自体に納得いかなかったからです。校長は「言おうと思っていました」と苦しまぎれに答えました。

 

夜7時半から説明会が開かれる日の午後1時頃、県教委2名、校長、教頭、PTAの役員の方、総勢8名が家に説明にきました。

その報告書を一読すると、それは顧問だけに聞き取りをし、どういう練習をし、どのように剣太の様子がおかしくなり、どういう処置を行ったのか、そして、救急車要請、容体急変、死亡確認…という時系列ごとの、ごく簡単な報告書でした。

そこで、剣道場にいて一部始終を見ていた風音を呼び、その報告書を読ませました。すると風音は怒りをあらわにし「誰がこんなこと言ったんですか!事実と違うじゃないですか。」と言いました。そして意識がない剣太の胴を顧問が左足の膝で押さえ、左手で襟をつかみ、手を振り上げ歯を食いしばり「演技するな」と言いながら殴る様子を話しました。

 

 「今日の保護者説明会は取りやめて下さい!保護者をわざわざ呼んでこの説明ですか」と言いましたが、学校側は「この報告書を書きかえるわけにはいきません。今日はこれで説明します。」と言い、何時間経っても話は平行線のままでした。
とうとう「その説明でやればいいじゃないですか! 私たちが真実を話しに行きますから!」と言うと、それを聞いて校長らはすぐに帰っていきました。

 

その日の夜7時30分より竹田高校にて「保護者説明会」が開かれました。私たち夫婦は剣太の遺影を持ち、喪服を着て説明会に出席しました。顧問、副顧問が不在の中、説明が始まりました。私たちに見せた報告書による簡単な説明の後は、他の生徒の心のケアについて、学校にカウンセラーによる相談体制をとり、生徒の保護者向けに「子どものケアをして下さい。」と剣太以外の生徒の心配ばかり――、あとは「調査委員会を設置します」ということを何度も繰り返しました。

何の質疑もなく会は終わろうとしていました。それは当然でした、何も質問する箇所が無いぐらい、学校には何の落ち度もありません…というような報告内容だったからです。

説明会の間、妻はずっと校長のことを見据えていました。拳を握りしめ何度も校長のいるところまで出て行こうとしました。私は「最後まで聞いてから」と妻をとどめました。

学校側の説明、そして質疑応答まで聞いてみなければ、最後に何か学校から謝罪の言葉や剣太の死を悼む言葉があるかも知れないと、私はかすかに希望も持っていましたが、最後まで何もなく、他の生徒のケアを一生懸命説明しているだけで、風音や私たち遺族に対しては一言のケアの言葉、謝罪の言葉もありませんでした。

 

何の質問も出ず、会が終わりにさしかかった所で、妻が剣太の遺影を抱えて校長の前に立ち、風音が、見ていた事実のすべてをマイクを使って保護者らに話しました。妻も発言し、言い足りない個所は私が補足しました。その話を聞いて、保護者からたくさんの質問がありました。

 

剣太の死後5日目…親戚の方から、とりあえず、相談だけでも…と紹介してもらった弁護士の先生にお話しすると「とにかく早く証言をとって下さい」と言われました。しかし、その弁護士の方は「県が相手なら私たちはお受けできません。」と言われ、現在のT法律事務所を紹介して下さいました。「県」を相手に裁判を起こしてくれる弁護士は少ない…ということも意外なことでした。しかし、何かのご縁で、T先生とK先生にお会いすることができました。

 

剣太が亡くなって1週間ほどして、私たちは剣道部員の協力で証言を取り始めました。私たちにとって、この証言を集めるという作業は、まだ死んで間もない息子が、親のいない所でどれだけ苦しみ殴られ亡くなっていったのかを思い知らされる、文字通り、死にたくなるような作業でした。

私が各部員の家に出向き、保護者の了解を得て、かつ保護者立ち会いの下、部員一人ひとりの話してくれたことを録音しました。家に持ち帰ると、録音したテープを何度も聞き直しながら妻が、用紙に打ち直しました。妻は、ただ機械的に聞いて文字に記すだけ、内容を改めて読み直すことなんか絶対できない…死んでしまいたい、剣太のもとに行きたい…とよく言っていました。

 

剣道部員らが受けた心の傷も深く、ほとんどの子が竹刀を握れなくなっているような中で、一生懸命に思いだし、私たちに剣太の最後の姿を話してくれました。泣きながら証言してくれる子もいました。これらの貴重な証言があったからこそ私たちは闘う準備ができたのです。本当に証言をしてくれたすべての部員に感謝しています。この大切な証言を持ってT先生に届ける作業がしばらく続きました。

 

「これだけの事実が明らかになれば、大分県が顧問、副顧問に厳しい処分を下すだろう、その処分に私たちが納得すれば、わざわざ裁判を起こすまでのこともないだろう。」――私たちは、その時まだ、県と学校を信じていたのです。

 

処分を決定する教育委員会のメンバー一人ひとりに私たちは手紙を出しました。「どうか息子を死に追いやった剣道部顧問を懲戒免職にして下さい!」と。

しかし、出された処分は、顧問が停職6ヵ月、副顧問は停職2ヵ月でした。

剣太の命を何だと思っているのか!!

また何ごとも無かったように、知らん顔をして、子どもたちの前に2人は立つ気なのか!!

 

学校は命の大切さ、尊さをいちばんに教える所なのに、その学校で一人の人間が命を落とし、その原因となった顧問、副顧問の処分がこのように軽いものなのか!!

 

私たちの怒りは抑えられるものではありませんでした。そして、決断しました。最後まで闘う! 剣太の誇りの為、大分県の子ども達を守る為、私たちのような悲しい思いをする家族を2度と出さない為に!

 

T弁護士からは「病院に行って剣太君のカルテをもらって来て下さい」と言われ、私たちはよくわからぬままカルテの開示請求をしました。後日、T弁護士にお渡しすると、いくつもの対応のひどさから、T弁護士は即座に「これは酷い!病院もやりましょう」と言われ、大分県、顧問、副顧問、豊後大野市(病院)を訴えることにしたのです。

 
 
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